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パプアニューギニア訪問

⑦ 変わりゆくソビエト・ロシア

 ペレストロイカの旗のもと、社会主義統制経済から市場経済の導入へと大きな変革に直面している時期のソビエト連邦を、畜産議員連盟の一員として視察しました。ソ連崩壊(1991年12月)の前年、1990年4月20日から6日間の日程で訪れました。
 以下は『内田やすひろ後援会だより』第3号(平成2年7月発行)に掲載された、視察報告です。

 再び訪れるのはいつの日かと思っていたソビエトに、畜産議員連盟に所属していたおかげで、12年振りに訪れる機会を得た。イリューシン62の座席から、古ぼけた機内の壁面に残ったシミや破れたシートを眺めていると、ソビエトの70年にわたる計画経済の成果の一端がこれでは、三千万人にのぼる革命の犠牲者は、さぞかしやりきれなかろうと思えてくる。
 モスクワまで空路9時間半、ナホトカ経由・シベリア鉄道では8日かかる。前回は、後者の不経済な道を使ったため、モスクワがとても遥かな地である印象が強い。
 明治35年(1902年)、広瀬武夫という若い海軍大尉が5年間のロシア留学を終え、厳冬のシベリアを単身踏破して日本へ帰国した。彼は日露戦争の折、旅順港閉塞作戦の指揮をとり、行方不明の部下を捜しながら艦と運命を共にした、後の〝軍神・広瀬中佐〟である。
 学生時代に読んだ『ロシヤにおける広瀬武夫』という本が、当時アメリカ留学を終えたばかりの私に、地球を逆回りにヨーロッパ・ソ連を抜け、シベリア経由で日本へ帰ることを思い立たせたのであった。そのなつかしの地は、今眼下に氷結した大地として広がっている。
 12年の歳月とゴルバチョフ大統領のペレストロイカの成果がソビエト社会にどのような変化を及ぼしているかを見てくることが、今回の旅の大きな目的の一つであった。
 モスクワ・シェレメチェボ国際空港に到着早々、ロシア的時間の存在を認識させられることとなる。飛行機から出るのに30分。入国管理窓口を抜けるのに20分。最後の税関通過に40分。しかも対応がノロイ。八つの窓口の内、業務を行っているのは三ヶ所のみ。〝申告不要者は緑の窓口へ〟と書いてあるが、形だけのようである。どうやらこの国では、他の国とは違うタイム・スケジュールで動いていると考えた方が良さそうである。
 日本との時差はサマータイムのため5時間。出発前にさんざん脅かされていた寒さも暖冬のため日本と変わらず、わざわざ持って行ったぶ厚いランチ・コートが旅の間のシャクの種となった。

 今回私達が訪れた町は首都モスクワと古都レニングラードであった。ロシアは近代国家としての歴史がヨーロッパ諸国に比べると浅いため、我々にはロシアの文化や社会形態というものが馴染みが薄いように思われる。ことに、1917年にロシアに起こった世界初の共産主義革命の進展の経緯がロシアのイメージをゆがめてしまい、私達の心の中に、ソビエトとロシアというものを同一的イメージとして混在させてしまっている。
 ソビエト連邦という国家のイメージは味も素っ気もないような気がするが、モスクワとレニングラードの二つの都市の中には、ロシア文化の残光が色濃く残っている。何より面白いのは〝宗教はアヘン〟と断言したマルクス主義の総本山・クレムリンの中に、数多くのロシア正教の寺院と十字架が金色に光り輝き残っていることである。しかし、これはスターリン時代以後に修復されたものであろう。古都レニングラードの街の外観は、18世紀にピョートル大帝によって形づくられたままの様式を残している。さらにこの二大都市には、歴史的建造物が様々な逸話と共にあり、また多くの博物館・美術館が点在し、展示品の数量と保存状態の良さを誇っている。西欧各王室からの献上物で、今は本国にも残っていない貴重な物品もある。近代化の遅かったロシアが、ピョートル大帝以後、急激に西欧文化をとり入れ、その成果がロシアの大地で花開き、時にパリにいるような錯覚に陥ることすらある。ロシアは長く、ヨーロッパに対して後進国であった。しかし、その劣等感のバネが貴族文化としてではあるが、独自のロシア文化を成育させる力となったのだろう。
 歴史や芸術に興味ある人にとって、この二大都市は魅力尽きない街である。レニングラードで3時間程、一人街中を散策してみた。重厚な石造りの街並みと、〝北方のベニス〟の名を冠された運河。夕映えの橋上から水面を眺めていると、今にも自分が歴史の流れに溶け込んで行ってしまいそうだ。芽吹き始めたばかりの木々の緑を通して、旧海軍省の尖塔の黄金色のきらめきが目にしみる。
 かつて、ロシアに漂着し、ペテルスブルグの名で呼ばれたこの地で、女帝エカテリーナに拝謁した伊勢の大黒屋光太夫、若き日の広瀬大尉も同じ風景を目にしたはずである。

 外国に行った時に一番気になるのが、水と食べ物である。西側諸国においては、一流ホテルに宿泊する限り、相応のレベルのサービスと食事を手に入れることができる。しかし、東側諸国においては、その資本主義的常識は通用しないようである。ホテルで出される食事の様子からも、ソビエトの食料事情の悪さが見てとれる。特に生鮮食料品の乏しさが目につく。サラダといえば、キュウリとトマトに玉ネギの千切りのようなもの。メインディッシュは揚げ物や酢漬けに、ごはんのバター炒め程度であり、味も含めて日本の学生食堂の方がまだましというのが率直な感想であった。
 同行の先輩議員の中にシベリア抑留体験のある方がおみえだった。その方の話では、現在のパンと当時のパンはほぼ同質とあるという。ちなみに食事に出るパンは白パンと黒パンの二種。大きさは手の平の半分程で、厚さ5ミリ程に切ってある。少し酸味のあるそのパンにバターをつけて、ひたすら紅茶でノドの奥に流し込んだ。
 シベリア抑留者には、毎食このパン一枚と、湯飲み茶碗一杯程の中に何も入ってないスープだけが与えられたそうである。そのため皆、慢性の栄養失調で、年齢の高い者程体力の衰えが早く、冬の朝には必ず誰かが死んでいたという。戦後、ソビエトの国民そのものが食うに困った頃の話ではあるが、忘れられない歴史の事実である。
 今回の訪ソの主要課題は、農業事情の視察である。日本のざっと60倍の面積を持つこの国も、耕作可能な土地となるとその6分の1程度である。しかし、農業不振の代名詞のようなこの国も、かつては〝欧州の穀物庫〟と呼ばれた時代もあった。打ち続く戦乱と革命の嵐の結果、それも過去の栄光となってしまった。
 しかし今日も世界の農産物高比較において、ジャガイモは飛び抜けて一位であるし、小麦・穀物・綿花・食肉においてもアメリカ・中国に伍し二位・三位に位置する。では、その数値が本物だとするならば、ソ連のパンの3分の1がアメリカの小麦によって作られるなどというバカげたことがなぜ起こるのだろう?
 冬になると、モスクワの国営商店ではパンと固いチーズ、脂身の多い質の悪いソーセージぐらいしか買えないという。果実野菜類も国営の八百屋では品数も少ない。自由市場に行けば、値は張るが多種で良質の品が手に入る。日本の流通制度以上にこの国のシステムの改善は急務のようだ。そうしたこの国の実態を考えると、我々の食の贅沢さに罪の意識に似たものを覚える。しかし他の外国人のテーブルの上にも多くの食べ残しがあるところを見ると、どうやら、食事が口に合わないのは我々だけではなさそうである。

 ソ連の集団農場について初めて学んだのは、確か小学校の高学年だったと思う。以来、コルホーズ、ソホーズという名を幾度となく耳にしたものだが、具体的イメージは分からず仕舞いだった。
 今回、参議院議員の大木浩先生の御配慮によりレニングラードの南西45キロにある、レスノエ畜産コルホーズを視察できることになった。総面積3千ヘクタール。内、600ヘクタールが牛の放牧場で、残りは家畜飼料の耕作地である。ここでは480人の人が働き、内、120人が畜産従事者だそうだ。併設された小さな農村には、商店も学校もある。ここでは約900頭の乳牛が飼育されており、特に乳牛の品種改良のための研究に力がいれられている。ホルスタイン種を中心に新しく交配させ新しく誕生した牛は、全ソ連に送られているという。ここも、ペレストロイカの影響で独立採算制をとっている。本館の二階の壁面には、様々な品評会での優勝・入賞メダルが誇らしげに多数展示されてあった。実際に見る農場は確かに広い。土の色も悪くはなさそうだ。となると、革命後、ほとんど豊作の年のないこの国の農業の不都合は、よく言われるように気候よりも制度上の原因なのだろう。
 国営農場の従業員に、自営農民と同じ土地への愛着心と、ノルマ以上の労働を期待する方が無理なのかもしれない。
 せっかく実った穀物や野菜・果実の多くが収穫されずに農場に放置されたままということが本当にあるそうだ。日本でも、豊作のため取れ過ぎたキャベツを廃棄処分して、市場価格の暴落を防ぐことはあるが、そのためにキャベツが店頭から消えるようなことはない。まして店頭から消える理由が「運搬用のトラックがない」などというのは、私の理解を超えている。
 レスノエに来る途中に見た、貨物列車に満載されたトラクターは果たしてどこへ行くのだろうか? 物はあっても入手困難。必要な時に必要な物が必要な所にないということが、この国の経済の最大の欠陥であろう。しかし、ノーメンクラツーラと呼ばれる全人口の3パーセントにあたる〝赤い貴族〟階級においてはその限りではないらしい。そんな裏話をロシア人から聞かされると、一体、何のための革命だったのかと考えさせられる。
 資本主義は確かに欠点の多い制度である。しかし、自由競争と市場経済の原理の中で、その欠点を補完する能力も併せ持っている。そしてそれを保障する手段こそが言論の自由であり、議会制民主主義なのである。
 ソビエトの社会制度、いや、そもそも共産主義という考えの中に、「どんなに立派な理想の下でも、制度を運営する者は機械ではなく、感情と欲を持った個々の不完全な人間である」という認識が欠落していると感じるのは、私だけであろうか。
 同時に、この教訓は我々にも共通のものである。どんな政治制度の下であっても、権力を自らの目的に利用しようとする者は無くならない。政治に対する絶えざる反省と向上の努力こそが、より良い明日を約束してくれるのだろう。

 モスクワのボリショイ・サーカスで、幕間の度にピエロの一人が出て来ては、大声で「タバリッシュ(同志諸君)と叫んで演説を始める。その都度場内は爆笑の渦に包まれるのだが、どうやらこれは、共産党員を揶揄した寸劇のようだった。
 少し前のソビエトでは、こんなことは考えられなかったはずである。わずか十年前には、長髪は強制的に切られたし、アメリカ文化の象徴・ジーンズは不許可であったそうだ。今や、モスクワの大通りにはマクドナルドの看板が立ち、300メートルの行列ができている。ピザハットの販売車も走っているし、ペプシ・コーラはどこでも手に入る。街中のどこでカメラを構えていても注意されることはほとんどなくなった。
 ホテルの自室で見たテレビ番組は、チェルノブイリのその後について詳細な報道を行っていた。地元の人の話を聞いても、生活消費財の不足など、経済的混乱に対する不満の声はあるが、以前よりはるかに自由になったという声が強い。決して現状に満足はしていないが、しばらくはゴルバチョフのやり方を見守りたいという姿勢のようである。
 しかし、以前は生活必需品を買うために長い列はなかったはずである。ペレストロイカで、各企業に独立採算制が取り入れられたため、企業が収益を高めるために利益率の低い部門を縮小したせいだそうだ。
 近代資本主義の十分な洗礼を受けていないこの国で、中途半端な形で市場経済を導入した結果、このような混乱を招いている。形だけマネしても、それをこなせる人材不足、設備も法律も未整備。一度緩めたタガは、もはや容易に締め直せない。
 経済問題と民族問題。二つの時限爆弾を抱えて、今ソビエト連邦は後戻りのできない危険なツナ渡りを始めている。
 「ペレストロイカで何が一番変わったのか?」という質問を、ガイドのミハイル君にしてみた。すぐに「あなたはどう思う?」と問い返されてしまった。「12年前とあまり変わったような気がしない」と言うと、「その通りです」と一言。
 とは言うものの、ほこりっぽいモスクワの町は以前のままながら、確かに雰囲気は明るく開放的になっている。
 今、ソビエトに広がりつつあるこうした明るい解放感は、一世紀以上にわたってヨーロッパをさまよっていた共産主義という名の妖怪が、ようやく確実に姿を消そうとしているからかもしれない。

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