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続・アジアの窓から

④ オイル・ロードを行く

新世紀アメリカ事情

 1999年10月下旬、名古屋港管理組合議会の副議長として11日間、主に中東地域の港湾都市を訪問し、オイル輸送ルートを視察調査しました。帰国後、記録報告を東海愛知新聞紙上(2000年1月19日~3月4日連載)にて発表しました。コラム『オイル・ロードを行く』(全24回)の中から12編を抜粋して、ここに公開します。


はじめに

 平成11年度の名古屋港管理組合議会副議長を仰せつかって間もなく、新任の正副議長は、それぞれ別個に名古屋港のPRを兼ねて海外の港湾都市を訪問する仕事があることを議会事務局より知らされた。とはいえ、昨今の景気低迷による財政難の折でもある。辞退すべきかどうか議員団長に尋ねたところ、
「これは職務上の特命を受けて行われる任務だから、自信を持ってしっかり調査してくるように」
 という答えを受け、今回の歴訪が実現の運びとなった。
 訪問先の選定は本人に一任ということでもあり、歴代の正副議長が一度も訪れておらず、我が国の経済と安全保障において極めて重要性の高い中東オイル地域とその経路を選択することにした。十一日間で六カ国を訪れるため、いかに効率良くポイントを回るかに訪問の成否があると考え、以下のルートを採る。
 近年、中央アジアの油田が世界の注目を集めているが、その搬出ルートの一つである黒海沿岸の歴史的な港湾都市オデッサ。次に、ヨーロッパとアジアの分岐点としての歴史あるボスポラス海峡のあるトルコのイスタンブール。そして、日本の石油輸入先として重要なクウェートと、アラブ首長国連邦のデュバイ。最後に、アジアへのオイル・ロードの要として海上自衛隊による防衛論議や海賊で有名なマラッカ海峡を視察することにした。
 このほか中東地域にはスエズ運河を持つエジプト、中東問題の震源地イスラエル、そしてアラブの盟主サウジアラビアやオマーンなど興味深い国々が多く、事情が許せばイラン、イラクも訪問対象としたいところであるが、今回は前述の五つのポイントに絞ることにした。

 一般に私たち日本人にとって、東南アジアの国々の特徴はイメージしやすいものであるが、インド以西の国々となるとそうはいかない。殊(こと)にヨーロッパとの間にある中東地域は、その気候、風土、習慣、宗教などあらゆる面で異質の地域であり、また、より遠い西欧に比べて情報量も少ない。私たちは中東で起きた事件の表面的事実を知っていても、その周辺事情や歴史背景について十分理解しているとは言えない。生涯無関係な外国で済むならそれでも良いが、私たちはそうした一見不可解な中東地域に産出するオイルに現在と将来の生活と安全を委ねて生きているのである。四方を海に囲まれた加工貿易国日本は、オイルのルートを断たれただけでお手上げとなるのである。オイルを断たれるのは、必ずしも軍事的理由に限らない。先方のお気に召さぬことで売ってもらえなくなる可能性もある。
 かつて七十年代に起きた二度に亘(わた)るオイル・ショックで、我が国は中東産油国から手痛い仕打ちを受けた経験がある。当時、日用品の買い占め騒動もあり、政府は石油輸入先の多角化をはかるために中国、インドネシア、メキシコ、中南米にまでオイル大使を急派したことを記憶している。確か当時の中東石油への依存度は80%弱であった。以来二十数年経過し、輸入総量の増加した現在、中東産石油(原油)依存度は、さらに86.5%と高まっている。
 「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の譬(たと)えの通り、湾岸戦争に見られたアメリカの中東政策の真剣さに安心して、エネルギー安全保障への危機管理意識も薄らいでしまったのだろうか。それとも、中東産石油の方が安いという経済的理由には抗すべくもないということなのか。

H10年度 五大港貿易額比較
貿易額(百万円) 五大港比 全国比
横浜港 5,120,638 25.8% 11.6%
名古屋港 4,665,973 23.5% 10.6%
東京港 4,629,357 23.3% 10.5%
神戸港 3,422,554 17.3% 7.8%
大阪港 1,992,203 10.0% 4.5%
19,830,725 100.0% 45.1%
 しかしここで私たちが再認識すべきは、基本的にアメリカは自国の国益と安全保障のために中東にまで自らの機動艦隊や陸上部隊を派遣し、同様の目的で外交政策を構築しているということである。日本の存立のためには日本独自の外交政策及び中東諸国との友好関係構築が必要とされる。
 人口爆発と途上国の生活レベルの向上によって、二十一世紀のエネルギー事情はより切迫したものとなることが予想される。新・エネルギー源の開発も今一つの段階であり、原子力利用の拡大も難しい環境にある今、当面利用できる一番効率の良いエネルギーは石油及び天然ガスである。その石油や天然ガスをいかに確保するかが近い将来、再び大きな問題として浮上してくるはずである。
 また名古屋港は、そうした加工貿易国・日本の産業中枢圏中部・愛知の海の玄関である。新空港建設により空の時代が喧伝されがちな今でも、私たちは石油の総対外貿易量の99%を海上輸送に頼っている。名古屋港の港湾設備と機能性を高めることは、中部圏、愛知の産業発展と私たちの生活の向上、そして将来の命運さえ担うと言えよう。
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オデッサ港湾局訪問

 港湾都市としてのオデッサは、黒海・地中海を通じルーマニア、ブルガリア、フランス、イタリア、ギリシャ、そして対岸のトルコなどと結ぶ定期航路を持っている。
 私たちのホテル左手の交差点に町の創設者であるリシェーリエ公の銅像が立っている。ちょうど、その足元辺りから海側を望むと、ロシア革命の最中に起こったポチョムキン号の水平蜂起事件を題材とした映画『戦艦ポチョムキン』で有名になったポチョムキンの階段が見下ろせる。最上段の幅が13.4メートル、最下段が21.6メートルの192段の石階段は、下から見上げると実に堂々として見える。階段の先には港の大桟橋があり、ここに海から到着した人々は、まずこの階段を見上げるところからオデッサの印象が形成されることになるようだ。
 私たちは、昼食時間の遅れのため約束の一時半に少し遅参してしまった。電話連絡の後、港湾局のゲートを抜け本棟に入ると、髪の長い大柄な女性が階段の途中まで下りて出迎えてくれた。彼女が、ここの広報・渉外関係の主任であるスベトラナ女史であった。さっそく三階の局次長室に案内される。
「本日は局長不在のため私がお話させて頂きます」
 と言って出てきたアレクセイ次長は、いかつい顔をした、いかにも船乗り上がりといった風貌の人だった。体は私より小ぶりであるが、握手した手は大きく肉厚であった。着席して、いきなり話が本題に入ってしまったため、頃合いを見て、
「一応、公式訪問の挨拶文を・・・」
 と言いかけたところ、
「もう本題に入ってるんだから、そんなもの読むな」
 と言う。生真面目な随行のT課長は、
「それでも一応・・・」
 と私の背をつつく。私は手短に今回の訪問の要点を英語で説明して話を戻した。何となく、この白髪頭のフルシチョフのようなおじさんが好きになれそうだと思った。
 このときの対話を通じ、名古屋港とオデッサ港の港湾としての根元的な役割の違いに気づかされた。名古屋港は、言ってみれば百貨店のように何でもござれという大店舗である。逆に、オデッサ港はノレンの古い呉服屋さんといった感じで、歴史と伝統はあるが規模も取り扱い量も小さく、近代港湾としての整備はこれから、というところであった。
 年間コンテナ取り扱い量がTEU(20フィートコンテナ)5万個であり、名古屋港の150万個との余りの差にT課長が、「月当たりの間違いではないか?」と聞き返すほどであった。
 オデッサでは現在、鉄鋼など金属系の取引が主力であり、カーゴ・コンテナの仕事は、イリチョースクというレーニンの父の名を冠した隣の港が中心である。昨今、途上国の港湾で外貨導入のための手段として流行りの〝経済フリーゾーン〟計画の説明もあったが、その規模は予想外に小さく、本年一月の実施にしては準備不足と思えた。現在オデッサ港では約4万5千人の労働者が働き、港湾局は203人で運営されている。局では、そのうち40%は女性であるという。局内を視察して気づいたことはOA化の進展である。ここにおいても既にコンピューターは一人一台の割り当てとなっていた。
 港湾視察の最後に、
「帰国後新たな質問があれば、こちらまでeメールを送って下さい。アドレスは名刺の裏に書いてあります」
 と言われたときには、情報社会の国際化のスピードに今さらのように驚かされた。ここはアメリカではない、旧ソ連のウクライナである。
 港湾施設の見学を終えて戻ってくると、
「今夜は歓迎のためレストランを予約してあるから、ゆっくりしていってくれ」
 ということであった。
「しめた! 食事代が浮いた」
 と喜んだものの、間もなく我が身の甘さを気づかされることになる。

 港の大桟橋の中央ビル四階のレストラン・マルコポーロのテーブルの上には、大きなグラスが一人ずつ置いてあった。着席後、エステイトという名の四十五度のウォッカがなみなみと注がれてゆく。乾杯の音頭とともに、それを一息で飲めという。普段一滴も酒を飲まない私にはそれは不可能だと告げると、
「君は酒が飲めずに来たのか? ロシアでは、酒を飲むことがビジネスの第一歩である。だから、一息でグイといけ!」
 と譲らない。火を吐く思いでこれを二口で飲み干したところ、たちまち二杯目を注がれてしまう。ガイドのナターシャが「私の主人もあまりお酒を飲まない」と助け船を出してくれたが、
「そんな奴はロシア人ではない」
 と受け付けない。
 酒が回るに連れ、面白い話を聞くことができた。
 彼のポーランド人の友人は若い頃、一船員としてソ連のムルマンスクに行ったとき、ジーンズを三本重ねばきし両腕に四十個の時計をつけて入国し大儲けをしたそうである。その人は今、ポーランドで港湾局長をしている。また、スベトラナ女史の父親は旧ソヴィエト陸軍の有名な将軍であったそうだが、机の上にはアメリカの自由の女神像を飾り、今も積極的に家事をするやさしいお父さんであるという。
 体制は違っても、個々の人間の日々の営みには大差はないのかもしれない。

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中央アジアの石油資源

 今回のオデッサ訪問において私が最も関心を持っていたのは、ウクライナと同様にロシアからの独立路線をとるカスピ海及び中央アジア地域における石油・天然ガス開発事業との関連性についてであった。
 現在、カスピ海沿岸部には確認埋蔵量で300億バーレル、推定可採埋蔵量ならば2000億バーレルと、中東に次ぐ石油資源の存在が見込まれている。近い将来の石油エネルギー逼迫の時代を見越して、ソ連崩壊後すぐに欧米の石油メジャー関係者はこの地域と接触を始めている。それまでソ連に独占されていた地域に、欧米の進んだ石油掘削技術を導入することによって新しく開拓される石油・天然ガスを、パイプラインを通じて西側へ引き出そうというのである。
 石油資源を有する中央アジアの新独立国家は脱ロシア経済を目指して新しいルート設定を望んでいるが、反対にロシア側は同地域へのこれまでの影響力を保持するために自国領を通過するルートを要求している。またアメリカは、政治的に対立するイラン、イラクを避けて、グルジアからトルコへ抜けるルートを考えているようだ。
 単純に経済効率から見れば、イランを経由してペルシャ湾へ引いてくるのが最も合理的な選択といえる。実際トルクメニスタンは自国の国益を優先してイランを通過する天然ガスのパイプラインを計画し、1997年より稼働させている。
 先般アメリカも、トルクメニスタンの天然ガスをトルコのジェイハンまでカスピ海を横断して送る〝トランス・カスピ海パイプライン〟計画と、バクーからジェイハンまでの石油パイプライン計画を併せて進めている。数十億ドルの建設費による直径42センチ、長さ2000キロ以上に及ぶパイプラインの埋設事業は、経路の国々に通貨料を含む経済的恩恵と新たな雇用を創出できる。また、中央アジアの石油・天然ガスを一定量世界市場に安定供給することになれば、湾岸諸国(OPEC)による一方的な石油価格の協定を牽制することもできることになる。
 こうした中央アジアからのパイプラインの通過想定コースの一つが、黒海へのルートである。かつては、ロシアの内海と化していた黒海であるが、ソ連邦の崩壊により新たな問題が起きていた。黒海には、ウクライナのオデッサ、セバストーポリ、ノボロシースク、ポチなどを母港とする380隻の艦船と7万人の人員を擁するソビエト黒海艦隊があった。ソ連崩壊後、この艦隊がどこに帰属するのか、また管理運営を巡ってロシアとウクライナの間で揉めていたが、1997年になってようやく、ロシアが二つの港の二十年間借用料として一億ドルを支払うことで両国の合意ができた。
 そのうちの一つでもあるオデッサ港は、前述の通りオイル専用港湾ではない。どちらにせよ、ウクライナではロシア共和国との旧来の関係上、ロシアのオイルを優先的に取り扱うことになっているという。しかも老朽化したオイルターミナルは設備の更新を必要としながら、現在資金難の故に遅れている。そのため、黒海ルートのパイプライン計画に対して当地は消極的であり、さらに国際石油市場に石油がダブついている現況から、大きな投資を必要とする黒海軽油のオイルの市場競争力に疑問を感じているようだ。
 事業意欲はあっても、資金と将来見通しがないという見解(こと)であった。
 石油事業には、開発と運用に莫大な資金がかかり、国際市場における価格変動という大きなリスクが伴ってくる。そうした諸条件を考えると、中央アジアの石油資源も中東と同様、欧米石油メジャーに席捲される運命なのかもしれない。

 日本に関係することとして、1995年に日米中の三国とトルクメニスタンが、シルクロードの北側に沿って約8000キロにわたる天然ガスのパイプライン〝シルクロード・パイプライン〟の共同調査契約に調印している。事業化までに十年かかるこの計画も、確認埋蔵量が約3兆立方メートルということであれば、将来に向けて重要な投資となるかもしれない。
 ただ、このパイプラインの建設経路が、中国、韓半島という政情に不安のある地域を予定している点に安全保障上の危惧が残るといえる。現に、このプランについて某商社の見解を尋ねたところ、
「シームレス鋼管の大量販売の見込める鉄鋼会社は賛成するでしょうが、我々オイル関係者としては長大なオイルパイプの安全性と事業の投資効率を考えると、あまり現実的とは思えませんネ」
 という答えであった。
 最近、かつて日本が最初に手がけながら途中で手を引いた旧樺太(サハリン)沖から、石油・天然ガスの採掘に成功したというニュースが耳に入ってきた。日本の撤退後、エクソン、ダッチ等経験豊富な欧米メジャーが参入し、事業化に成功したのである。
 石油事業の困難性、ギャンブル的側面を考えると、一概に日本の関係者の不明を問うことはできないと思うが、かつて「石油の一滴は血の一滴」のスローガンのもとに太平洋戦争を経験した資源小国の日本であればこそ、より戦略的な資源対策が必要なことを痛感している。

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復興するイスラム

 ソ連邦の一構成区であった頃、世界の辺境として忘れ去られていた中央アジアの国々が、有望な石油資源と、復権し拡大するイスラム教の存在によって、再び世界の注目を集めている。
 ソ連時代は「宗教は麻薬である」という共産主義のドグマのもと、細々と形だけの官製イスラムとして存続するしかなかった。それがソ連邦崩壊により頭の上の重しが取れたかのように地域ナショナリズム、民族主義が台頭し、同時に伝統的イスラムの思想と習慣が復活してきているのである。
 かつて十四世紀に中国まで旅したイブン・バットゥータは、「経路のどこの地においてもモスクとコラーンの声があり、イスラムの広がりに驚いた」と記述している。
 復権する中央アジア圏と世界の石油資源の65%を占める中東圏が、今新たなイスラムの時代を築きつつある。かつての「右手にコラーン、左手に剣」は、今や「左手にオイル」となっている。
 私たちはイスラムに接する機会に乏しいため正確な認識に欠けがちである。そのため私もコラーンの日本語訳を読むことにした。私が大きな思い違いしていたのは、イスラムというのはアラビア語で「すべてを神に委(ゆだ)ねる」という意味であり、宗教であるとともに生活規範であり、社会規範でもあるという点である。モスレム(絶対服従)としての生き方と彼らの共同社会そのものがイスラムと呼ばれ、政教一致がイスラム本来の姿である。我々日本人にとって地理的に遠い中東圏をさらに遠い存在としている理由に、そうしたイスラムの在り方があると言える。そこで今後の理解のために、イスラムの基本的な事柄に触れておきたいと思う。

 そもそもイスラム教は西暦610年にメッカ郊外のヒラー山に山籠もりをしていた40歳のムハンマドが、大天使ガブリエルの啓示を受けたことに始まる。彼が生前に受けた神の言葉をまとめたものがコラーンと呼ばれる聖典である。神の啓示を受け始めた当初、ムハンマド自身何かの憑きもののせいではないかと疑っていたという話は面白い。
 イスラムは、信仰の正しさが日々の行為によって具現されなければならないとする宗教である。その基本は六信五行と言われ、アッラー、天使、啓典、預言者、最後の審判(来世)、予定(神の定め)の六つを信じ、以下の五つの決まりを守ることに始まる。第一は唯一神アッラーに対する信仰の告白と誓い。第二は一日五回の聖地メッカへの礼拝。よくアラブの航空会社のパイロットは礼拝の時間になると自動操縦にしてお祈りを始めるという話を耳にすることがあるが、さすがにこれは嘘のようだ。第三はザカートと呼ばれる喜捨。年収の約40分の1をお金か品物で差し出し、イスラム共同体の貧しい人や困っている人々を救うために使われる。この点イスラム教は共産主義に似ている。第四は断食。太陰暦の9月に当たるラマダンの約一ヶ月の間、日中の飲食や喫煙、性交が禁じられる。ラマダンの期間は異教徒であっても断食にお付き合いせざるを得ない社会的雰囲気があり、その方が仕事もうまく運ぶという話だ。郷に入れば郷に従えである。最後は、イスラム教徒として一生に一度はメッカへの巡礼をすることである。巡礼者はメッカに入る前に体を清め、イフラームという二枚の白布を身に付けなければならない。誰しも神の前では平等という証(あかし)であるようだ。その後、聖モスクのカーバ神殿の周りを七周歩く儀式などを行うのである。
 サウジアラビアのメッカまでの長旅と数日間に及ぶ宗教儀式は、年輩者にとっては随分キツイらしい。途中、死者が出ることもあるが、巡礼中に倒れると天国に行けると信じられており、老骨にムチ打って参加する老人も少なくない。
 現在、世界のイスラム教徒は約十億人であり、その多くは穏健な信者である。しかし、そのうち数%の保守的なイスラム原理主義者たちが欧米型の近代化を否定し、イスラム法とコラーンによるより厳格な社会浄化を目指している。中でもイスラム過激派と呼ばれる人々は、反対側、反米、反イスラエルの基本的立場からイスラムの背徳者や異教徒へのテロ活動を聖戦(ジハード)と称して正当化し、世界中を騒がせている。昨年秋、日本人技術者が中央アジアのキルギスで拉致された事件は、今も我々の記憶に鮮明である。
 イスラムは一神教としてユダヤ教やキリスト教を継承していると言われ、啓典の中でアバラハム、モーゼ、キリストらを同じ預言者として共有している。ただ信仰対象としての神はアッラーのみである。イスラムは宗教としての歴史が他の二宗教より若いせいか、現在もより強い宗教的ダイナミズムを保持しているようだ。イスラムに対し友好的とは思えないアメリカにおいてすら、黒人や少数民族を中心にモスレムが急増し、今や800万人を数えるという。善悪の区別、義務と禁止事項が明確で分かりやすい点が人々に新鮮な共感を呼ぶのかもしれない。
 トルコにおいて私は、定刻にモスクから信者に呼びかける祈りの声が何かに似ていることに気づいた。「アッラ~アックバル」(アッラーは偉大なり)というフレーズの音は、日本のアレとそっくりである。
「タッケヤ~サオダケッ」
 神よ、無知なる異教徒の暴言をお許しあれ。

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たくましい日本女性

 話が少し前後するが、ウィーンからイスタンブールに向かう機内で私には一つ気にかかることがあった。その日の夜訪問する予定のバロール家に、オデッサ滞在中に連絡がつかなかったのだ。
 実は、私の女房の従姉妹の一人がこの地に嫁いで来ているのである。ロンドンの大学に留学中に知り合ったトルコからの大学院生と三年越しの交際で国際結婚したのだという。そんな話を嫁さんから聞いてはいたが、御当人に会うのは今回が初めてである。御主人は現在41歳で、イスタンブール大学の工学部教授とのことである。
 そんな私の心配は、イスタンブール到着早々に解決する。ガイドのヤブス君に従姉妹のチカさん(旧姓・中村)より無事電話があった。イズミット視察が終わり次第携帯電話で連絡する手筈になっているとのことであった。
 その日は土曜日であり、帰りの道路渋滞を見越して、帰路はカーフェリーでイスタンブールに戻ることになっていた。せっかく乗ったマルマラ海横断フェリーであるが、日没後は真っ暗で海岸線沿いの灯りしか見えない。それでも潮風が心地良いので艦板上で一人たたずんでいると、いきなり日本語で「コンバンワ」と声をかけられた。見上げると、長身の紳士が笑顔で立っている。カタコトの日本語と英語で話が始まり、彼が軍楽隊の指揮者であることが分かった。日本に何度も演奏旅行に出かけてるらしく、メモを見ながらやたら日本語を使いたがる。そのうちに、ドヤドヤと彼の仲間が集まって来て、カタコトの日本語大会が始まってしまった。いずれにしても、この国が親日的なことが良く分かる出来事であった。

 フェリーを下りて、再び車上の人となる。近道をしたつもりであったが、土曜の夜で雨も降って来たせいか、大変な渋滞である。ボスポラス大橋が見えているのは車は一向に進まない。結局、約束の場所まで四時間もかかってしまった。
  私たちの心配をよそに、バロール一家は三人の可愛い娘さんたちとともに笑顔で迎えてくれた。
 御主人のイギン・S・バロール氏は、面長な顔に口髭をたくわえ、夏目漱石に似た知的風貌をしていた。
 同じく初対面のチカさんは、以前お会いしたことのあるお母さんにそっくりである。彼女は岡崎の光ヶ丘女子高の卒業生であり、
「内田さんのことは、最初に衆議院選挙に出られたときの新聞記事でよく知ってますよ」
 と言われ、赤面の思いであった。
 十歳の珠愛(たまい)ちゃん、七歳の悠香(はりか)ちゃん、三歳の沙菜(さや)ちゃんの三姉妹は、それぞれ日本でもトルコでも通用するように名づけられたのだそうである。我々の到着時間に間に合わせたテンプラは遅参のため冷えてしまったが、十分おいしい心づくしであった。目の色の違う姪たちに、
「おじちゃん、こっちへ来て」
 と呼ばれて案内され、子供部屋の宝物を見せてもらう。どうやら、私のオミヤゲの三匹の熊のヌイグルミも仲間入りさせてもらえそうだ。
「それにしても、チカさんは勇敢ですね。今から十年も前にイスラム教国にお嫁に来るなんて、僕が女だったら、とてもそんな勇気はないですよ」
 と言う私に、
「結婚前に、トルコについては本を読んで十分研究しましたし、彼もその家族も良い人たちでしたから決心したんですよ。当時は少し不安もありましたけど、今は私の選択は間違っていなかったという確信があります」
 と語っていた。
 奥さんが話している間、御主人は何度も立ち上がっては私たちにトルコのお茶をサービスして下さった。トルコ人の男の気質は、日本で言えば九州男児と聞いていたので意外であった。その後彼は、
「私の叔父は『カミカゼ』でした」
 と私に語りかけてきた。初めは何の話なのか分からなかったが、私の嫁さんの父親の長兄が海軍航空隊の沖縄特攻で亡くなっているという話をチカさんから聞いたのだろう。彼はそれを誇りに思っているようであった。彼の父親は最高裁判所の裁判官で、若い頃は映画俳優でもあったという。そんな自慢をするのかと思ったが、意外な骨っぽさに好感が持てた。

 最近、日本で元気なのは女性ばかりのような気がするが、チカさんとは違った意味で、日本の女性のタクマシさを感じさせる話を一つ。
 これは、この後のアラブ首長国のガイドから聞いた話である。イスラム教では平等に扱う限り四人まで妻を持つことができるが(もっとも、最近は婚約のときに「妻は一人」と約束させられるそうだ。王族に関しては何人でも良いらしい)、その一人一人が立派な個人住宅に住み、ベンツを愛車に優雅な生活をしているという話を日本人観光客にしたところ、何人もの女性から、
「二号でも三号でもよいから、そんな相手を紹介して下さい」
 と言われたそうである。初めは冗談かと思っていたら、日本から写真と履歴書が届き、そのうちに催促の電話まで架かってきたとのことだ。
「それは、デヴィ夫人のように水商売のお姉さんたちですか?」
 と聞けば、
「いいえ、二十代から四十代の初めぐらいの普通の学生やOLの方たちですよ」
 という。
 思慮の有無、ことの良否はともかく、何ともタクマシイ根性ではあるまいか。
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ロレンスとアタチュルク

 T・E・ロレンス(1888年-1935年)、イギリス人。K・アタチュルク(1881年-1938年)、トルコ人。同時代の人物ではあるが、直接関係のないこの二人を何故ここで取り上げたかと言えば、現代の中東における問題を浮き上がらせる上で分かりやすい存在だからである。
 トマス・エドワード・ロレンス――いわゆる「アラビアのロレンス」と呼ばれる人物である。中世の城塞研究者である学究肌の考古学者が、何故にアラブの反乱を指揮する戦士となったのか?
 彼自身は貧しいアラブの人々をオスマン・トルコの支配から解放し独立を与えることを夢見ていたが、結果的に本国イギリスのために利用されることになる。対トルコ戦において大きな功績を挙げながら、英国陸軍内では気紛れな厄介者扱いを受け、最後にはアラブ人からも裏切り者と呼ばれる。当然ながら、敵方であったトルコでは現在も最も人気のない西欧人の一人である。
 今回の文を書くに当たり、手持ちのビデオの中にある完全版『アラビアのロレンス』を再度観てみた。原題は「ロレンス・オブ・アラビア」。学生時代に初めて観たときには、砂漠の映像的美しさと戦いのスペクタクル、そして神秘的な遊牧民の風習などに目を奪われていた。今見直してみると、ここにも西欧的白人の傲慢さというものを感じることができる。要するに、
「自分たちの考え方は常に善であり、その考えによって行われることはすべて正当化される」
 という態度である。
 ナチス・ドイツのゲルマン民族至上主義は突然起こったものではなく、そうした西欧的優越感が純化した思想の一つに過ぎない。現在でも、時に有色人種を人間だと思っていないと見受けられる人物に出会うことがある。そんなとき、歴史上の出来事が納得して思い出される。しかし事実として西欧がその軍事力を背景に世界の覇権を握ることができたのは、ほんのここ三百年ほどのことに過ぎない。それまでは逆にモンゴルや中国、イスラム国家に軍事的にも文明的にも圧倒されていた時代の方が長いのだ。銃火器が発明され大航海時代に入っても、オスマン・トルコ帝国には、おいそれと歯が立たなかった。
 ようやく十七世紀の末になり、帝国内部の綻(ほころ)びによりオスマン・トルコが衰退に向かい出してから、西欧の巻き返しが始まったのである。ハンガリーがオーストリアに奪われ、ロシア・トルコ戦争の大敗で他のヨーロッパ領土を失い、第一次大戦の敗北により、トルコは小アジアの一国へと転落してしまった。そこに登場したのがトルコ紙幣の顔としてお馴染みのケマル・パシャ(アタチュルク)である。トルコを無力化するセーヴル条約に反対してギリシャと戦い、これを撃ち破って現在の領土を確保するローザンヌ条約を結んだのである。しかし、この一連の流れの中でオスマン・トルコは滅び、非トルコ人の居住する広大な中東における領土を失うことになる。
 アタチュルク(トルコの父)の名の由来は、国家の危機に立ち上がった彼が初代大統領として立憲共和国の基を築き、政教分離の改革によりトルコの近代化を進めたことによる。またそれが、トルコが中東に位置しながら、現在西欧と同一歩調の立場をとっている遠因ともなっている。

 今日、中東において問題となっている事柄の多くは当時、中東における利権を巡って西欧列強が謀略を策したことに始まっている。第一次大戦前、アラブ人たちは中東におけるオスマン・トルコの長期支配に不満を持ちながら、アラブ人同士の部族間対立のため効果的な抵抗運動を展開することができなかった。国家という理念を理解しない、そうした放牧の民の前に現れたのがロレンスであった。当初、英国陸軍の情報部に配属されていたロレンスであったが、アラブ人の運動に関わるに連れ、本来の任務よりもアラブ人の抵抗運動そのものにのめり込んで行ったようだ。
 ロレンスの著書『知恵の七柱』によれば、彼は戦いに臨んでアラブの衣装を身にまとい、銃弾と白刃の中を先頭に立って敵陣に突撃して行ったという。決して口舌の徒ではなかったのである。ロレンスは度重なる戦闘のため、体中に数十カ所の負傷を受けている。それらの事実が、アラブ人の彼に対する絶対の信頼と英雄視を生むことになる。
 ロレンスのアラブに対する献身とは裏腹に、本国イギリスは帝国主義的野心に基づいて駒を進めていた。当初イギリスは、ドイツ、トルコとの戦争に勝利するため欧米のユダヤ人財閥の資金援助を得るべく、ユダヤ国家再建を唱えていた(バルフォア宣言)。同時に、中東からトルコを駆逐するために、アラブ人に対しても同様の独立国家建設の約束をした(マクマホンの約束)。その中で、一つしかないパレスチナの地をユダヤとアラブの双方に与えるという二枚舌外交をしたことが今日の混乱の発端である。
 おまけに、フランスとはトルコ帝国崩壊後の中東を両国で分割する「サイクス・ピコ協約」を結んでいた。はじめからユダヤやアラブとの約束を守る気などなかったのだろう。これが、今日もきれいごとを並べながら対外交渉をおこなっている西欧の本性である点を再認識すべきである。
 失意のロレンスは、その後本国でバイク事故のため亡くなった。享年46であった。

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砂漠の民

 中東と言えば、まず頭に浮かぶのは砂漠である。中東に行って砂漠に行かないのは、日光に行って東照宮に行かないくらいマヌケなことになる。
 しかし、ここでは市街地を抜けると一面砂漠が広がっており、私の心配は無用であった。公式訪問を済ませてホッとした後、私たちは直ちに北へ向かった。私のたっての希望である〝日本の生命線〟ホルムズ海峡視察のためである。通常そんな所を見たがる物好きは少ない。ガイドも初め、「自衛隊関係の仕事かと思った」そうだ。
 我が国の血液である石油の九割近くはこの海峡を通過して日本まで運ばれてくる。ホルムズ海峡を封鎖されれば、ペルシャ湾岸からの石油は即ストップされる。石油の九割が断たれれば、我が国の生産活動及び国民生活は一ヶ月足らずでマヒ状態に陥るのである。オイル・ショックを経験された方は、その影響の一端を分かっておみえと思うが、現在の国民のどれだけがその事実を理解しているか心許ない気がする。
 デュバイ郊外の道路を時速100キロ以上で飛ばして行く。ふと気がつくと、沿道の街路樹の下に指の太さくらいの黒色のパイプが延々と続いている。何かと問えば、散水用のホースであるという。2、30センチ置きにパイプに穴が開いていて、そこから水が染み出る仕組みになっている。この高温では黒いパイプ内の水はお湯になっているはずである。
「パイプの色を白にするか地中に埋めた方が良いのではないか?」
 と言えば、
「それでも植物は育っていますから・・・」
 という返事だった。
 途中、集落に近づくごとに車がスピードを落とし、何か小さな小山を乗り越えて行く。これはハンプスという名の障害物で、車が人家に近づいた時に強制的に減速させるために設置してある。ところが、実際はハンプスそのものが事故の原因となっているケースも多く、最近では取り除き作業が行われているそうだ。
 路上に首なしヤギの死体が転がっているのを見たが、高速で走っている場合急ブレーキ、急ハンドルはかえって危険であり、そのまま直進するという。殊(こと)にラクダの場合、減速しながら衝突すると牛のような体が車の上に落ちてくる。その時、乗用車の人間はラクダと心中することになるそうである。貴重な財産であるラクダを路上ではねた場合、一頭当たり約20万円の賠償責任が発生するが人命には替えられないだろう。
 赤い砂塵に煙るハイウェーを約3時間走って、最北のラス・アル・ハイム首長国の海岸線に辿り着いた。対岸のイランまで約70キロの距離があるものの、浅瀬や小島が散在するため、大型の船舶の通過地点は限られたものとなっている。航行中に対艦ミサイルで狙われれば一たまりもないだろう。アメリカがホルムズ海峡の確保に真剣になるのは、まさにその点である。
 私たちは車を下りて周囲の散策をした。さびれた村の中央に、不似合いな白いモスクが建っていた。モスクの前に腰掛けていた老人に話しかけると、遠来の客(?)に対してアラブの茶を振る舞ってくれた。香料のきつい不思議な味のお茶を飲みながら目前をゆるやかに歩いて行く放し飼いの牛を見ていると、まるでアラビアン・ナイトの世界に紛れ込んだような錯覚がしてくる。

 帰りの車中、T課長に話しかけたがもう返事はない。ここ数日の日程を考えれば無理もない話である。しかし翌朝には、懲りもせず迎えのランドクルーザーに乗り込み砂漠へ向かう我々であった。デザートに入る直前に入念なタイヤチェックを行う。この場合、高速道路とは逆にタイヤの空気圧を少し下げる。タイヤに柔軟性を持たせることによって砂の中に埋まり込むことを防ぐのである。
 砂漠を車で疾走するのは今回が初めてであるが、40度ほどの斜面を時速60キロぐらいで走ると、車がスキーのように横滑りすることが分かった。ドライバーは車を巧みに操って我々を砂漠の奥へ導いてくれた。そこには、いかにも砂漠の生活に慣れているといった風体の五人の男たちとともに一頭のラクダ、サンド・バギー、サンド・ボード(?)が置いてあった。考えてみれば、これが今回唯一の息抜きの機会である。夕方の飛行機の出発前に一通りこなす予定でいたが、T課長が「足を折るといけないので、サンド・ボードはやめて下さい」と言う。
「ここでやらなかったら一生チャンスはない」
 と私は答え、砂の上で大転倒することになる。もちろん足など折らない。
 サンド・バギーはオートバイと同じ要領である。映画『大脱走』のスティーヴ・マックイーンにでもなったつもりで砂丘の丘をフル・スロットルで思いっ切りブッ飛ばした。ここでは、道路も障害物も制限速度もない。いつもお騒がせの暴走族の諸君も、どうせなら町中でなく、砂漠のような人のいない所でやって欲しいものである。
 砂漠の上に寝転がって指で砂を掻いていると、赤みがかった砂の粒子の細かさ、美しさに改めて驚く。目に眩しい太陽まで、心地良い解放感を感じさせてくれる。こんな爽快な気分は久し振りである。砂漠に魅せられたロレンスの心が分かるような気がした。

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クウェートの霰(あられ)

 西暦二千年を記念して、世界中で様々な催しが行われている。デュバイの国際航空ではミレニアム(千年紀)記念の宝クジが売られていた。一枚1000ディルハム(約3万円)で、三千人に一人の割合で百万ドル当たるという。私も自分のオミヤゲのつもりで一枚買ったが、ちょうどこの原稿を書き始めた日にハズレの通知が届いた。
 クウェート航空669便に乗り込み自分の座席を捜したところ、黒いベールをつけた太った女性が先に腰かけている。スチュワーデスに確認したところ、私のシートである。仕方がないので隣のシートに座ろうとすると、
「そこは、私の主人の場所!」
 と怒鳴られてしまった。
 「勝手に人の席を占拠しておいてその言い種は何だ」と文句を言おうと思ったが、遅れて来た人の良さそうな御主人に頭を下げられ席を譲ることにした。かくして禁煙、窓際の私の指定席はアラブのオバタリアンに奪われてしまったのである。
(「アラブでは女性の権利が認められていない」などと言った奴は誰だ)
 今回の旅の日本人ガイドである寺本君の、
「『人の振り見て、我が身が正しい』というのがこちらの流儀です」
 という言葉が思い出される。
 現在25歳の寺本君は中学を卒業後、単身カナダへ留学、高校を卒業してペルシャ語の勉強をするためにインドのカルカッタの大学に学んだという変わった経歴の持ち主である。外国旅行の楽しみの一つは、こういうユニークな人物と会えるチャンスがあることだ。驚いたことに、山口県出身の彼は、私が秘書をしていた安倍晋太郎代議士の親族だという。実に不思議な縁だ。
 話を元に戻すと、その後私のシートに座った隣の人に、「あの女はクウェーティ(クウェート人)だ」と教えてもらった。

 クウェートがイラクによる侵略を受けたのは、十年前の1990年8月2日のことであった。当時、日本にいた我々は、中東の小国クウェートを軍事大国イラクが侵略したという弱い者いじめのイメージで捉えていた。ところが、中東における当時のアラブ諸国の思いは違ったものであったようだ。石油のおかげで金持ちになった態度のデカい成金が、フセインという狂犬に噛まれて、「ザマーミロ!」というのがアラブ一般の気持ちであったらしい。
 もともとこの国は、十八世紀以前にはほとんど無人の地であった。1710年に内陸から移り住んだ部族がクウェート湾沿岸に水源を発見し、部族国家の基を築いたのである。この地は真珠採取と漁業を中心に栄え、次第に中東の海上貿易の拠点となっていった。後にイギリスの保護領となるが、この国の運命を変えたのは1938年に巨大な石油鉱脈が発見されたことによる。莫大な石油収入により急速な近代化と繁栄を成し遂げたことが、近隣諸国の羨望と妬みを買っているらしい。
 1961年に独立を達成し立憲君主制をとっているが、政党の設立を禁止された議会は決定権がなく、実験は首長に集中している。岩手県ほどの面積の土地に世界有数の石油資源を有することが、この国の名を世界に知らしめているのである。
 クウェート空港に到着した我々は、さっそくイスラムの戒律の厳格さに直面することになる。オデッサで飲み残したウォッカのボトルが珍しい形であったこともあり、オミヤゲとしてトランクに入れてあった。これが手荷物検査に引っかかった。同じイスラム圏であっても、外国人に対する理解のあるトルコやアラブ首長国とは異なり、クウェートで酒類は御禁制の品として一切持ち込みできない。封の切ってある飲みかけのボトルであったが、係官は一言も発することなく事務的にボトルを取り上げ、机下の箱に放り投げた。オデッサ出発時には十分な時間がなくて、オミヤゲ用の新品が買えなかったが、何が幸いするのか分からない。買っていれば大損である。ちなみに、この国では酒類は麻薬扱いであり、外交官ですら外交官特権を行使できない。
 不満顔の我々を待っていたのは、インド人ガイドのパルティ君という20歳の若者であった。
 さっそくウォッカの一件を話すと、昔は町で酒を飲むこともできたが、イスラム回帰の運動の高まりとともに規制が激しくなってきたとのことであった。しかし闇市に行けば三、四倍の値で酒も手に入るというのが中東らしいと言える。そういえば、日本出発前に、
「湾岸戦争後のクウェートでは、サウジアラビアなど近隣の世話になった国々からの圧力で、イランの原理主義とは別のイスラム的保守化傾向が強まっている」
 という話を聞かされていた。

 一般に、中東の産油国ではアラブ首長国連邦のケースと同様に、自国民は豊かな石油収入の恩恵により裕福な生活を享受している。クウェートでも教育は無料で義務化され、成人教育や障害者教育も整備されている。医療も各福祉サービスも無料であるという。しかしネイティブと呼ばれる生粋のクウェート人と出稼ぎの外国人労働者との身分格差は歴然としている。同じアラブ人でも、石油発見前からの住人の子孫でなくては国民と認められない。国民でなければ土地も建物も所有することはできない。永久に借り家住まいの余所者(よそもの)扱いである。我々の車のアメットという中年の運転手もインド人であった。この国の人口の三分の二は、彼らのような外国人労働者である。こうした頑(かたく)なな区別がクウェートの弱点となっている。
 軍隊で言うなら、将軍と上級将校は自国人で、下士官・兵は外国人で構成されているようなものである。そんな軍隊が信頼できる訳がない。現にイラクの侵攻に際し、真っ先に逃げ出したのは彼ら外国人であるが、それを責めることはできないだろう。どちらにせよ、良質の中間管理職を自前で持っていないことが、この国の最大の弱点と言える。
 翌朝、目が覚めると外は雨である。雨とともに霰(あられ)まで降って来た。半年降りのこの雨が、毎年恒例の夏の終わりの合図(サイン)なのだという。

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湾岸戦争の爪痕

 日本大使館の公式訪問と、クウェート三井物産の平山社長との面会を終えてホッと一息の私に、ガイドのパルティ君が、
「夕方の出発時間まで、どこに行きたいか?」
 と聞いてきた。今回どの国でも時間が少ないため、ガイドもどこへ案内すれば良いか迷うらしい。私が楽しみにしていた国立博物館は、イラクのスカッド・ミサイルの直撃を受けて、展示館の四分の三は破壊されたままであるそうだ。おまけに、中にあった金銀財宝などの貴重品は、侵入したイラク兵によって略奪されてしまったという。国の基本的インフラの再建はほどなく回復したものの、一度失われた文化遺産の復興は簡単ではないようだ。
 湾岸戦争は、もう十年前の出来事であるが、
「当時の様子を知ることができる所があったら、連れて行ってほしい」
 と言ったところ、郊外にあるクウェート人住宅街を訪れることになった。莫大な石油利益の配分を受けるクウェート人は安価な土地付き住宅を供給され、世界でも最も豊かな生活水準を享受している。
 高速道路から住宅街に入り奥まった一角に車が止まった。車外に出ると、右手前のフェンスの中にソ連製のT72戦車が公園の滑り台のように放置してある。近づいて見れば、表面には赤く鉄サビが浮いている。燃料切れの戦車がただの鉄塊に過ぎないというのは本当のようだ。
 それから左手を見て驚いた。そこには段ボール箱を蹴り壊したように穴だらけの住居があったからだ。これは多国籍軍陸上部隊の攻撃前に、本土防衛のため撤退したイラク軍がクウェート内の重要な軍事施設とともに政府高官、軍人や警察官など先導役となりそうな人々の自宅を個別に攻撃した跡なのだという。ただクウェート側もその動きを事前に察知していたため、実際に被害に遭った人は多くはないそうだ。
 今回訪れたのは、初期の襲撃の被害者となった警察官の家であった。隣家が警察の事務所であったため標的となったらしい。家の中に入って改めて被害のひどさに驚かされる。至近距離から発射された戦車砲の直撃を受けて、家の中はボロボロである。家と言うより洞窟の中といった印象である。
 警察官である父親が外に出て応戦したため、階段の下に隠れていた家族は助かったという。崩れかけの階段をのぼり、三階まで上がってみる。上部ほど破壊の程度がひどく、三階はほとんど吹き抜け状態であった。戦車砲が上向きに発射され直撃弾を受けなかったことと、一階の階段下にいて爆風の影響が少なかったことがこの家族にとって幸運であった。隣の事務所の方はイラク兵の突入を受け、戦闘の結果、中にいた警官と軍人の十名全員が殺害された。
 二階の床に片膝をついてカメラのフィルム交換をしていた私に、
「あなたの目の前のジュータンの染みは血痕ですよ。そこで25歳の警官が射殺されたんです」
 と、ガイドが教えてくれた。現在、壁面には彼らの遺影が飾られている。

 この湾岸戦争という戦いは、私たちにとって分かりにくい戦争であった。ノルマンディー上陸作戦以来の大兵力と巨額の資金を投入し、しかも完勝に近い戦況にありながら肝心のバグダッド侵攻作戦を中止してしまった。そうして独裁者フセインを生かしておいたため生物兵器や核兵器の査察問題が起き、こじれた挙げ句昨年2月に再びイラク空爆とミサイル攻撃に踏み切ることになった。第二次大戦の時でも、ベルリン攻略戦を止めてヒトラーを生かすことなど誰も考えなかったはずである。
 イラクを完全につぶしてしまうと、その対抗勢力であるイランのイスラム原理主義の拡大が脅威となるという見込みもあったのだろう。かと言って、大兵力をイラクに配備したままにはできないため、フセインという毒によってイランの毒を制することになった。
 もう一つの懸念は、イラクをつぶした後、仮にかの地に民主国家が成立したとしても、その影響で中東各国に民主化の動きが起こればサウジアラビアをはじめとするアラブ君主国家の足元が危うくなる。アラブの王様たちがヘソを曲げれば、西側に石油が流れなくなるおそれがある。そういう事情が、国連をして、あのような煮え切らない対応をさせたのだと思う。
 今クウェートでは、湾岸戦争の教訓として、国の北側の古い油田地帯を西側企業に開放する計画がある。イラク国境沿いに西側の資本が展開することにより、イラクもおいそれと手出しできなくなる。さらに、古い油田の二次・三次回収事業から得られる粘度と比重の高い原油の処理に欧米の高度な技術力を使うことができる。おまけに事業から生じた利益は、開発者とクウェートで分配するという〝プロダクション・シェアリング〟契約が適用される。問題は、「地下の油の権利を外国に与えてはならない」とする憲法の条項の解釈だけとなる。
 憲法と言えば、私がクウェートの軍隊について尋ねたところ、「日本はどうなんだ?」と逆に質問を受けてしまった。
「日本にはSDF(自衛隊)というものがあるが、相手から攻撃を受けるまで彼らは鉄砲一発撃てないように法律で定められている」
 と答えると、
「それは悪いジョークだ。ミサイルの先制攻撃があれば、戦う前に全滅だ!」
 と言われてしまった。
 厳しい部族間闘争と長い忍辱(にんにく)の歴史の上に、明確な力の論理に支えられて生きている彼らに、日本の現状は理解しにくいようだ。やはり、日本の常識は世界の非常識ということなのだろうか?

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現代の海賊

 数年前までは玩具のナイフを片手にした我が家のピーターパン・次男を相手に、私もサーベルを持たされフック船長の役を仰せつかっていた。
 私たちの頭に浮かぶ海賊のイメージは、こうしたディズニーの「カリブの海賊」に代表される中世の香りのするものであった。ところが昨今、アジアを中心に現代版海賊が急増し猛威を振るっている。マレーシアにある国際海事局海賊情報センターによると、昨年は世界で285件の海賊事件が発生した。これは一昨年の202件の40%増であるという。しかも、そのうちの40%が東南アジア海域で発生している。
 この問題は今回の私の調査項目の一つでもあるが、私たちの視察途中の10月末にも事件が発生していた。インドネシアのスマトラ島を出たばかりのアロンドラ・レインボー号という日本船籍の船が行方不明となっていたのだ。日本人船長を含む乗組員17名は、海賊団により6日間監禁された後、わずかな食料と水を持たされ、救命いかだに乗せられて外洋へ投げ出されたという。幸い11日間の漂流の後に現地の漁船に救助されたが、当初漁船側も海賊の罠かもしれないと思い、警戒して見捨てて行くつもりだったという。それ程、海賊行為が頻繁に起きているのである。近年のアジア経済低迷とインドネシアの政情悪化がこの海域の海賊の増加に拍車をかけているらしい。漁民が俄(にわか)海賊となると、同じ漁船を狙い、魚と燃料を奪って行くという。
 このところの犯罪凶悪化傾向の中で今回全員が助かったのは、先進国の船員を殺したり多くの死者を出すことにより問題が国際化され、当局の取り締まりが強化されることを海賊側が恐れたためらしい。貴重な積み荷を大量に運ぶ大型船を狙う海賊たちはかなり組織化されたプロである。まず小型高速船を使って狙った船の船尾に接近する。カギ爪のついたロープを投げ上げよじ登るや、最短距離で操舵室と船長室を制圧する。ナイフや拳銃に加え、自動小銃からロケット砲まで持つ海賊に船員たちは抵抗できない。運が悪いと、一昨年11月のパナマ船のように乗組員23人全員が殺害されるケースもある。乗っ取られた船は外国へ運ばれ、積み荷を売却した後、元の船と判らないように船体を塗り直し、別の船名をつけられる。そのままでは転売できないので、中南米の小国で証明書を偽造した上で国際市場で売り払う。完全犯罪の成立である。

 昨年この海域の海賊事件は約120件であるが、そのうちの20件は日本船籍の船が被害に遭っている。特に日本船は法律上、武器の携行が許されていないため狙われやすい。私たちの視察したマラッカ海峡は、マレー半島とスマトラ島の間にある全長800キロの海峡である。最狭部は53キロほど。複雑な地形に加え漂砂の堆積による浅瀬も多く、大型タンカーの難所の一つである。朝夕二回の満潮のうち朝4時前後が海の深度が深くなるため大型船はこの時間に集中する。そしてその衝突事故や座礁を心配して減速航行をするところを海賊に狙われるのである。
 この海峡を通過する一日200隻もの大型船は、夜通しサーチライトで周囲を照らしたり甲板にドーベルマンを放したり、一晩中船尾から放水をしたりと工夫をしているが、プロの海賊の手口はその上を行っている。そのため、海賊に襲われた時に積み荷と船の替わりに相手に数千ドルの現金を手渡して取り引きをし、被害届を出さないケースも多いという。被害調査のために船を休ませる方が損害が大きくなるからである。また現地の情報では、犯行手口と武器の様子からインドネシアや中国の軍関係者の関与の声もある。
 一昨年の9月に海賊の被害に遭ったテンユウ号の場合、3ヶ月後に発見されたのは中国の港であった。総額5億円以上のアルミのインゴットとともに韓国人の船長と中国人の船員10名は全員行方知れずである。死亡保険金が下りたら姿を現すという話もある。船は船名が書き直され塗装も変わり、中国側は盗船と分かっても乗組員を拘束も取り調べもしなかったそうである。反対に日本人の船主に対しては、船の港への停泊代金、書類経費、役人の人件費、旅費とホテル滞在費の請求とともに、設備も不十分な中国の港で修理してからでなければ船を返さないと無理難題をふっかけてきたという。
 こうした諸々の事情から推測して、一連の海賊事件の背後には中国の役人や軍関係者を巻き込んだ国際的な組織(シンジケート)の存在が考えられる。貴重品を積んで港を出たばかりの大型船が狙われるということは、積み荷と航路の情報が港湾関係者から海賊団に漏れているとしか考えようがない。海事保険金と積み荷や船を売り払った代金を山分けするために、船長から船主まで海賊団とグルになっていたという悪質なケースもあるという。
 最近中国で大がかりな汚職事件摘発と不良役人追放の運動が続いているが、これがどの程度の効力があるかは疑問である。今後、石油タンカーまで標的となった時、どのように防衛するのだろうか?
 昨年11月にフィリピンのマニラで行われたASEAN首脳会議において小渕首相は、頻発する東南アジア海域における大型貨物船襲撃事件に対する懸念を表明し、ASEAN各国の沿岸警備機関による海賊対策会議を日本で開催することを提唱している。現代において、国の安全と繁栄は単独では守ることはできないのである。

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もし日本なかりせば

 今、マレーシアにあって日本がなくしたものがある。天然資源のことではない。それは、欧米流の国際ルールに対し自らの哲学を主張する気概あるリーダーの存在である。
 以下は、1992年10月に香港で開催された「欧州・東アジア経済フォーラム」で、マレーシアのマハティール首相が行った演説の一部である。
「もし日本という存在がなかったとしたら、世界はまったく違った様相となっていただろう。ヨーロッパとアメリカが世界の工業を支配し、欧米がすべての基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために世界中の国々はその価格を押しつけられていただろう。貧しい南側諸国からの原材料の価格は、買い手が欧米しかないため最低水準に固定される。その結果、南側諸国は今より相当低い生活水準を強いられることになっただろう。勿論、南側の幾つかの国の経済開発も、東アジアの協力な工業国家の誕生もあり得なかっただろう。
 欧米の多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国に投資したのは、日本と競争せざるを得なくなったからに他ならない。日本との競争がなければ開発途上国への投資は行われなかった。また、日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ我々は模範にすべきものがなく、後に続く国々もなかっただろう」
 長い引用となったが、これは紛れもない外国の首相の演説の抜粋であり、私の創作ではない。
 マハティール首相は、折に触れ欧米の自分勝手な経済政策に対し異論を唱え、アジアの文化、アジアの経済のあり方を説いている。同時に日本に対して、いつまでも及び腰でなく、ともに立ち上がる指導力の復活を望むメッセージを度々送っている。私たちがそれを知らないのは、日本のマスコミが取り上げないからである。
 我が日本は、先の大戦において欧米はじめ四十数カ国を相手に無謀な戦いを挑み、完膚なきまでに叩きのめされた。現在も、その後遺症としての厭戦感と戦後のGHQによる占領政策の呪縛から抜け切れずにいる。そういう意見を述べると、それを「軍国主義の復活」につながるものと短絡的に考える人たちがいるが、そんな意味で言っているのではない。今となっては、戦いに敗れたためにミソもクソも一緒にされた東京裁判の結論を押しつけられているが、そのことを日本人の視点から改めて見直したいということである。
 外国人が日本の悪口を言いたければ勝手に言わせておけば良いと思う。しかし事実と照らし身に覚えのないことであれば、何と言われようと認めてはならない。残念ながら、我が国の中には日本の過去をすべて否定した方が自分たちの政治目的のために好都合な人々が少なからずおり、彼らは国の歴史を捏造することも国家の名誉を落としめることに対しても何の精神的痛痒も感じはしない。ただイデオロギーという名の自分たちの宗教に対して奉仕することしか頭にはないのである。

 先日、鹿児島へ出張した折に知覧の特攻隊基地跡まで足を伸ばしてみた。以前から、戦後生まれの自分たちは、何か歴史に対する仁義を欠いて生きているような気がしてならなかったのである。それがなぜ知覧か?と問われても、うまく答えられない。あえて言葉にすれば、生と死の狭間のギリギリのところで国家に対する忠誠を求められた方々に対し、心からの敬意と弔意を表したかったと言う他はない。今回の旅の途中、トルコ人の親戚から言われた「私の叔父はカミカゼです」という一言も影響しているかもしれない。
 鹿児島からローカル・バスに乗って約一時間半で知覧に着いた。現在、旧飛行場の西側に銅像とともに平和会館が建てられている。茶色の屋根にクリーム色の壁面を持つ平和会館の入口を抜けると、正面に宮崎市の仲矢勝好という画家の描いた日本画が目に入った。六人の天女が、紅蓮の炎を上げる隼(はやぶさ)の機体から特攻隊員の魂を昇天させようとしている図である。
 私は、しばらくその「知覧鎮魂の賦」という絵の前から動けなくなってしまった。隼のような軽戦闘機まで特攻に使われていたのだ。重い250キロ爆弾を積んで沖縄を目指しても、敵はすぐにレーダーで捕捉し一群四、五十機のグラマンF6F等の重戦闘機で何段構えにも待ち構える。米艦船には容易に近づくこともできなかったろう。仮に雲に紛れて接近できたとしても、VT信管を付けた猛烈な対空砲弾の破片でほとんど目的を達成することはできなかったはずだ。それでも彼らは出撃したのである。
 防弾対策の施されてない日本機は、被弾すれば忽(たちま)ち火ダルマになったという。燃える機体の中で操縦桿を握り、身を焼かれ薄れゆく意識の中で、自らに与えられた任務を運命と信じ飛び込んで行ったことが多くの遺書から伺える。

 私は特攻を賛美賞賛するものではない。逃げ場のない状況の中で、こうした形で最善を尽くさねばならなかった人々を鎮魂したいのである。私は家で、子供たちに特攻の話をする時に、殊更(ことさら)特別な話として語らない。なぜなら、我々の日常においても同様の時があるからである。警察官、消防士、教師その他いずれの職業においても、自らの職務を全うするために命を賭けざるを得ない局面というものがある。そうした時に自己の任務をプロの誇りを持って遂行できる人々のお陰で世の中は成り立っているのである。そういう人たちの人口に対する割合が一定の数値に達しなくなった時、社会は正常に機能しなくなる。
 昨今の出来事を見る限り、日本は今、そうした危険な分水嶺を越えようとしていると言える。
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名港とエネルギーの将来

 名古屋港に迷い込んで堀川を遡っていたシャチが無事に海へ戻ったという。やはり尾張名古屋はシャチということで、最終回(おわり)はシャチの話から始める。
 現在名古屋港では、新空港や各幹線道路と凍結した陸・海・空を結ぶ一大物流拠点を目指し、港の機能整備をおこなっている。同時に、来年秋のオープンに向けて水族館の第二期整備事業に着手している。この事業は、人々が楽しみながらシャチやイルカと接することにより海洋動物への理解を深め、さらに飼育繁殖を含めた研究を行うことを目的としている。その目玉となるのがシャチのショーである。
 この事業に対しては「自然はあるがままにしておくべきである」とする一部自然保護団体の反対もある。
 今までシャチやイルカのショーを観た時、余りにタイミングの良い動作に、私はそれが彼らの考えた行動ではなく、単に訓練による条件反射であると思っていた。ところが先日、視察で和歌山のアドベンチャーワールドを訪れた際、こんな体験をした。
 ショーのための大水槽の裏には水路を通じて小プールがある。ショーを終えてリラックスしている二頭のシャチに近づくことを許され、女性調教師の横から手を出すと、シャチがゆっくり近づいて来た。頭の先端をなでると思いのほか柔らかい人間の頬のような感触が返ってきた。写真撮影のため再び触ろうとすると、今度は頭を振ってイヤイヤをされてしまった。どうやら見慣れない人間を警戒しているようであった。頭を斜めにしてピンポン玉のような目で私を観察しているのが分かる。バケツのアジを見せると再び寄って来て、白い歯の並んだ直径一メートルほどの口を開けた。
「こいつの気まぐれによっては食われるかもしれんな」
 と思いながら大口の中へアジを投げ込んでやると、今度はまた頭に触れさせてくれた。以前テレビ番組で、シャチが浜辺に体を乗り上げてアザラシを食べている映像を見た時、不思議に怖さを感じなかったことを思い出した。帰り際にふと振り返って見ると、小プールにいたはずのシャチが大水槽に戻っており、ガラス面の所から体を立て、ヒレを八の字にして私たちを見送っている。まるで横丁の犬に餌でも与えた後のようである。彼らの頭の良さと愛らしさを改めて知らされる出来事だった。私たちは、こうした鯨類の生態についてまだまだ知らないことが多いのである。
 現在、世界の水族館は単に展示魚類の数を競うのでなく、特色ある水族館として生物の研究を深め、それを保護活動に活かす方向へ進んでいる。

 これからの名古屋港は日本の産業機能の担い手としての役割を強調するだけでなく、この世界に誇る水族館施設を中核として家族で楽しむことのできるレジャーランドを民間との協力で造るような発想の転換も必要だと思う。現在、大阪ではユニバーサル・スタジオが建設中であるが、余暇を有効に過ごせる良質の大型娯楽施設の存在が愛知県にも必要ではないかと思う。また、そうしたソフトの発想が新時代における財源対策としても有効と考えるのは私ばかりではないだろう。名古屋港にはポートアイランドという380万平方メートルの埋立島があり、将来ここへ、飛鳥ふ頭を抜けて延長した環状2号線を繋げてレジャー・アイランドとして利用できないものかと考えている。
 私は連載の初回で、二十一世紀の石油不足について言及した。途上国の人口爆発と生活水準の向上に伴って食糧ばかりでなく資源不足も心配されるのである。確かに科学の進歩によって採掘される石油の量は増えている。新しく発見された油田もある。しかし、地球環境の保全や温暖化問題を考えた時、残余の石油資源を今まで通りに使うことはできなくなってくるのである。
 平成9年12月に京都で開かれた「地球温暖化防止京都会議」において、先進諸国におけるCO2等温室効果ガス排出水準の削減目標が設定されたものの、当分全体量は減りそうにない。このままでは2100年頃には地球の大気温度は2度上がり、海面が50センチ上昇することが予測される。その結果、地球規模で様々な災害や疫病が発生する可能性もある。CO2を出さない代替エネルギー源として原子力に期待がかかっていたが、このところの事故続きで拡大は望めない。太陽熱、風力、潮力等の自然エネルギーにも期待があるが、エネルギー総量と安定供給に課題が残る。現在研究が進展中のゴミ発電や水素エネルギー、燃料電池は、実用段階には至っていない。
 そうした中で、今一番実用性が高いと考えられているのが天然ガスである。我が国の天然ガス需要は、2010年には現在の二倍の7千万トンに達すると予測されている。これだけの総量の天然ガスを現地で液化してLNGとして日本まで輸送するのは困難であるという。そこで注目されているのが前述したサハリン(旧樺太)の天然ガスの存在である。海底パイプラインを使って天然ガスを直接日本まで引き込んで利用しようというのである。具体的なパイプラインのルートは、サハリンから北海道を経由し東京、名古屋、大阪の三大都市を抜け、九州までの約3300キロを既設の高速道や新幹線の高架下などを利用して運ぶのである。また日本近海には、メタンハイドレートというメタンガスと水の大きなガス層が、500メートル以下の海底においてシャーベット状になって閉じ込められていることが確認されており、その有効利用も考えられている。
 今回視察したオイルロードが、いつまでその名で呼ばれるものか私には分からない。しかし二十一世紀においても的確なエネルギー政策の有無がこの国の命運を握っていることは確かである。

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